田沼意次が目指した「重商主義」とその再評価
蔦重をめぐる人物とキーワード⑥
■払拭されつつある「賄賂政治家」の悪評
江戸時代を代表する、享保の改革、寛政の改革、天保の改革という3つの改革に勝るとも劣らない変革をもたらしたのが、田沼意次だ。
もともと父の田沼意行(おきゆき)が享保の改革を実行した8代将軍・徳川吉宗(よしむね)に仕えていたこともあり、意次は1734(享保19)年に、吉宗の長男であり、のちに9代将軍となる家重(いえしげ)の小姓に取り立てられている。
次第に幕閣で頭角を現した意次は、1772(安永元)年に老中に就任。後世に「田沼時代」と呼ばれるほど幕政を主導する存在となった。
政権を掌握した意次が注力したのが財政再建だった。逼迫する幕府財政を立て直すために、意次は農業中心から商業を基盤とする財政への転換に取り組んでいる。これは「重商主義政策」と呼ばれている。
幕府の収入といえば年貢米、すなわち米が税収の中心だった。意次が目をつけたのは、それまで誰も目をつけてこなかった「商業」で、年貢米を増やすよりも、商いを盛んにすることでの税収増を図った。
具体的には、商工業者の同業組合に「株仲間」を奨励し、販売や仕入れといった営業の独占権を認めた。その代わりに「冥加金(みょうがきん)」という営業税を納めさせたのである。記録によれば、意次の権勢が全盛を誇った1760(宝暦10)年から1786(天明6)年の間に、大坂では80件前後の株仲間が認可されたようだ。
また、長崎などで行なわれる海外との貿易も盛んに推進し、年貢米だけだった幕府の収入の多様化を図っている。
こうした改革は貨幣経済を発展させた上、文化や学問にも刺激を与えて盛んになるなど、財政以外の分野にも効果をもたらした。